第9回「国際成人教育協議会世界会議(WA)」 レポートその5

(前回からの続きです)

14:00-17:30 ワークショップ・自主ラウンド活動 第1ブロック

なんと驚くことに、第1から第3ブロックまで合わせて、64のワークショップがありました。3回にタイムテーブルがわかれているのですが、単純に1回につき20ワークショップやるわけです。
みんなで「多いよね~」と話していたら、カロリーナ(ウルグアイ)が、「申し込みなんて200以上あったのよ!!!断るのが大変だったんだから!」と言っていました。

14:00-16:00 自主ラウンド
成人教育者をエンパワメントする(課題2該当)

カロリーナ(ウルグアイ/英語教師)が、子どもたちへのリスニングの教材をきかせてくれました。

舞踊のバレエを習っている男の子に対して、「恥ずかしくないの?」「女の子のするものよね?」「親御さんはなんて?」など、大人からの偏見やネガティブな意味の含まれたメッセージのある質問に対して、子どもが「そんなことないよ!I can~because」を何度も言うリスニング教材でした。

「大人が言ってたことはどういうことだったか?」「なぜそういう質問が出ていたのか?」などを話し合いながら、ディクテーションをするそうです。
また、I canというポジティブで未来志向な言葉をたくさん学ぶことも目的としています。おお。パウロ・フレイレアプローチだなあ、と思いました。

言語学習をとおした「価値観」の学習で、曰く、「英語教育をしながら英語教育じゃないことをしているのよ、ふふふ」とのことでした。

マヤ(チリ)、セバスチャン(セルビア)は、教師を含めた成人教育実践者だけを集めた研修を3日間、実験的に行っているそうです(どこで活動しているのかを聞き逃しました)。

グループワークで直面する難しいケースを、サイコドラマでお互いに見合ってみたり、参加者同士で修了証をつくって渡しあうなどをし、お互いに高めあう実践を模索しているそうである。

カナダの研究者2人が3番目の実践に非常に興味を示し、
「単位をつけられないのか」
「正規プログラムにできないか」
「報告書をまとめて配布しなさい。誰かがきっと声をかける」
とぐいぐい迫っていました。

しかし、型にはめると内容や参加の柔軟性に反してしまうため、教育の質の保証と専門性のジレンマの話でもりあがって終了しました。

ものすごく好感度の高い若者2人とカロリーナ
16:00-17:30 自主ラウンド
グローバル市民に向けての教育(課題4該当)

見てびっくり。メモが異常に少ないです。
書きなぐられてる言葉だけをまとめます。

ワーナー(ユネスコ協会・ハンブルグ事務所):
  • ユネスコ協会は加盟国とプロジェクト実施する人の間にいる存在である。
  • グローバルな連帯を選ぶのか、グローバルな競争を選ぶのか。
  • GCE / Global Campaign for Educationは変革の教育である。
  • 国の外から来た人をどのように扱うのかが問われるのがグローバル市民である。
  • 常に歓迎する必要もない。けれど向き合わなければならない。
これは、グローバル市民の真髄だと思います。
グローバル市民は自分が外に出て行くことや理念としての寛容なマインドや共生をうたうことではない、というのは私の持論でしたが、その部分をこうもきっぱりと言われると、ぎくっとしてしまいました。

ネリダ(CEAAL・ラテンアメリカ成人学習協会):
  • 民衆教育は人々をエンパワメントするものである。
  • 民衆教育は、民主主義を好みます。
  • 民衆教育は、政治的なものである。
  • 人々が市民になるということは、政治的な人間になるということである。
  • 民衆教育は開発、正義、社会変革について話し合うことである。
■18:00-21:00 祝賀パーティー

さて、パーティーなので「常識」ではスピーチが続きます。
ケベック州やモントリオール市の協力を得ているので、こういうフォーマルな場では、関係者の皆様に「花を持たせる」のが「常識」です。でも、何人も続き、ちょっと長かったです。

すると、私たち“crazy”な市民組織はたちまち声をあげはじめてしまいました。いや、私たちのテーブル周辺だけの話です。酔いも回ってしまいました。

「成人教育と対話を促進するはずのICAEが、参加を保障してないよね~」
「一つのワークショップに3人も報告者がいたら、こっちはも話し合いなんてできないよ」
「ぎく!私報告者だったけど、ちゃんとインタラクティブを心がけたわよ」
「時間、時間ってそれじゃ内容の意味がないと思う」
「“ハーイ!あなたどこからきたの?”っていう話ばかりで、私たちがお互いに誰でどういうことをやっているのか、まったく出会えないよね」
「人類学者が言ってたんだけど、人って何を話したか伝えたかよりも、自分が何分間話したか、ということで自分の満足を果たそうとするんだって。みて、今の時間。話している人以外誰も満足しないよね」
「ええ?もうあと1人!?」「いや、あと3人かもよ」
「いやだ、あの人また話すの?まさか!」
「この一番後ろの私たちのテーブルは学校のnatty kidsのテーブルよね」
(…ちなみに、言うまでもなくkidsなどではなく50代から20代のgrow upsです)
うるさい私たち
進行方法については、プログラム最初のパネルディスカッションから、フロアコメントとして批判が出始めていました。
私は個人的に、昨日のGEOのパネラーの語りは全員聴きたかったし、聴けてよかったし、時間も終わるのが10時近かったから「ま、いいか」くらいに思ってました。が、合間に「内容への妥協を続けてはだめ!」メッセージがその後もがんがん続いていました。

実のところ、この話を笑いながらしつつも、最近の自分の授業を反省し始めていました。
たとえぜんぜん顔を上げてくれなくても、相手に語りかけているだろうか?
相手に語らせているだろうか?
反応がない相手でも、あきらめてないだろうか?
時間や場所の制約に妥協してないだろうか?

また、近年、DEARの全研の自主ラウンドテーブル申し込みが増えているそうで、積極的参加をしようとする方々が増えていることなので、とても嬉しいです。反面、一つのラウンドへの参加人数が少なくなることをつい心配してしまいます。報告しようと手を挙げてくださる方をがっかりさせたくないのもあります。しかし、「ラウンド」です。

じっくり話せてよいですし、「多くの人に聴いてもらうための時間」なのではなく、少人数でテーブルを囲んでその「内容について対話する」のが、内容のための学習、学習のための内容の「そもそも」だよなー、と捉え返しました。


帰りはうっかりはぐれてしまったので、一人地下鉄に乗り、夜のモントリオールを歩きながら、頭と心を休めました。
(報告:近藤)

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