こんにちは。スタッフの牧です。
10月25日(金)に、川崎市の「フリースペースえん」で、今年度2回目のワークショップを行いました。
DEARは、毎回さまざまな題材でワークショップを行っていますが、今回は「哲学カフェ」。イソップ物語の「アリとキリギリス」を題材に、「働くことって何?」「幸せって何?」「自己責任って何?」などといった「哲学的な問い」を、みんなで考えました。
ワークショップ当日は、台風の影響により、あいにくの大雨でした。普段は、野外で遊んでいたり、11月にあるイベントに向けて出展の準備をしているみんなも、この日は、屋内のスポーツをしたり、部屋にいてゲームをしたり、勉強したり、友達とお話などをしていました。
部屋の真ん中で行われた「哲学カフェ」に集まったのは7~8人ほど。途中だけ参加してくれた人もいました。はじめに、「アリとキリギリスを知っている?」と聞いたところ、その場で手をあげたのはたった1人でした。そして物語中の絵を見ながら、みんながストーリーを考えはじめました。
一般的に知られている「アリとキリギリス」は、冬に備え食糧をせっせと集めているアリに対して、夏のあいだ、大好きなバイオリンを弾きながら楽しく過ごしているキリギリスが、冬になって食糧に困り、アリに助けを求めてくるという物語です。
物語の結末は、最終的にアリがキリギリスを助けたり、反対にキリギリスが見捨てられて死んでしまったりと、何通りかありますが、みんなの想像力から膨らんだストーリーは、実に豊かで、大変面白いものでした。
例えば、絵には「アリとキリギリスの関係の様子」が描かれていますが、みんなから
「アリとキリギリスはけんかしているの?」
「仲直りしたの?」
「キリギリスはアリをいじめているの?」
「キリギリスはアリのボスなの?」
という声があがり、続いて行われたアリ役とキリギリス役に分かれた「劇」では、夏のあいだ、食糧を集めないでバイオリンばかり弾いているキリギリス役に対し、アリ役が「キリギリスさん、冬って越したことがあるの?食料を集めないと大変だよ!」と諭す場面もありました。
冬になり、キリギリスが困ってアリの家を訪ねてきた描写では、「ごはんをあげるかどうか」「家に入れてあげるかどうか」、「キリギリスがかわいそうだから入れてあげよう」という“賛成派”と、「キリギリスは自業自得だ」という“反対派”に、意見がなんとなくわかれ、その後、「キリギリスを家に入れてあげるから、その代わり・・・してください」という交渉が始まったりしました。
劇の後、みんなに“アリ派”か“キリギリス派”か尋ねてみると、「ちゃんと仕事をしている」“アリ派”が多い結果に。一方で、キリギリスの特徴であるバイオリンの魅力についても、話がでました。
キリギリスは音楽を奏で、人の心を豊かにし、楽しませている、それも素敵な仕事ではないのか。参加した子どもからサッカーなどスポーツ選手の話も出て、「仕事とは何なのか」を考え、最終的にみんなは“アリ派”か“キリギリス派”双方の間で揺れていたようでした。
次に、昔話法廷「アリとキリギリス 裁判」 というNHKの番組の映像をみんなで視聴しました。
この番組は、多くの人が知っている昔話を現在の法律の視点から、裁判形式で描いています。アリとキリギリスでは、「食べ物に困り訪れてきたキリギリスを、アリは見捨ててしまい、キリギリスは死んでしまう」という設定で、アリは刑法の「保護責任者遺棄致死罪」に問われます。
裁判で「有罪」か「無罪」か、結論は出さずに、考えてもらう内容となっています。「保護責任者遺棄致死罪」が一般的な保護者に限定されるのではなく、状況次第で友人にも適用されるという点は、大人も含め、みんな驚いていましたが、裁判の過程で話されるアリ側とキリギリス側双方の主張を聞くと、みんなの心は再び大きく揺れているようでした。
アリは「有罪」か「無罪」か―
映像を視聴後、「アリが助けないとおかしい」という意見や「それでもキリギリスは自業自得だ」という意見も聞かれましたが、「キリギリスの生命を見捨てること」と「アリが冬の間少々ごはんを我慢すること」または「それ以外の選択肢があるかどうか」を比較しながら、みんな、それぞれ真剣に考えているようでした。
人は、お互いに協力し、その行動に影響を及ぼし合いながら社会で生きています。時には、けがや病気をしてしまったり、家族・友人の状況が悪くなったり、社会経済状況が変わったり・・・いろいろなことが影響して、今のわたしたちは形作られています。
また、キリギリスが音楽を奏でることが幸せであったように、「幸せの尺度」は人それぞれで異なります。映像で語られていたキリギリスの状況と現実の社会をリンクさせながら、「キリギリスは果たして本当に自己責任なのか」「キリギリスはサボっていたわけではない」とみんな揺れ動きながらも、真剣に考えていました。
「哲学カフェ」には「答え」はありません。モヤモヤするかもしませんが、みんなで考え、話し合い、課題に対して「方向性」の道筋を示していく、そのプロセスが大事だと思います。
今回の「哲学カフェ」が少しでも心に残るものでしたら、とても嬉しいです。最後に、「えん」の皆さんとお会いでき、一緒に考えることができて、とても貴重時間を過ごすことができました。ありがとうございました。
10月25日(金)に、川崎市の「フリースペースえん」で、今年度2回目のワークショップを行いました。
DEARは、毎回さまざまな題材でワークショップを行っていますが、今回は「哲学カフェ」。イソップ物語の「アリとキリギリス」を題材に、「働くことって何?」「幸せって何?」「自己責任って何?」などといった「哲学的な問い」を、みんなで考えました。
ワークショップ当日は、台風の影響により、あいにくの大雨でした。普段は、野外で遊んでいたり、11月にあるイベントに向けて出展の準備をしているみんなも、この日は、屋内のスポーツをしたり、部屋にいてゲームをしたり、勉強したり、友達とお話などをしていました。
部屋の真ん中で行われた「哲学カフェ」に集まったのは7~8人ほど。途中だけ参加してくれた人もいました。はじめに、「アリとキリギリスを知っている?」と聞いたところ、その場で手をあげたのはたった1人でした。そして物語中の絵を見ながら、みんながストーリーを考えはじめました。
「これが1番目で、こっちが2番目かな?」みんなでストーリーを考えていきます。 |
一般的に知られている「アリとキリギリス」は、冬に備え食糧をせっせと集めているアリに対して、夏のあいだ、大好きなバイオリンを弾きながら楽しく過ごしているキリギリスが、冬になって食糧に困り、アリに助けを求めてくるという物語です。
物語の結末は、最終的にアリがキリギリスを助けたり、反対にキリギリスが見捨てられて死んでしまったりと、何通りかありますが、みんなの想像力から膨らんだストーリーは、実に豊かで、大変面白いものでした。
例えば、絵には「アリとキリギリスの関係の様子」が描かれていますが、みんなから
「アリとキリギリスはけんかしているの?」
「仲直りしたの?」
「キリギリスはアリをいじめているの?」
「キリギリスはアリのボスなの?」
という声があがり、続いて行われたアリ役とキリギリス役に分かれた「劇」では、夏のあいだ、食糧を集めないでバイオリンばかり弾いているキリギリス役に対し、アリ役が「キリギリスさん、冬って越したことがあるの?食料を集めないと大変だよ!」と諭す場面もありました。
バイオリンを弾くキリギリス(左)に対して、「働こうよ!」と呼びかけるアリ(右) |
冬になり、キリギリスが困ってアリの家を訪ねてきた描写では、「ごはんをあげるかどうか」「家に入れてあげるかどうか」、「キリギリスがかわいそうだから入れてあげよう」という“賛成派”と、「キリギリスは自業自得だ」という“反対派”に、意見がなんとなくわかれ、その後、「キリギリスを家に入れてあげるから、その代わり・・・してください」という交渉が始まったりしました。
アリさんとキリギリスさんの話し合いは白熱します |
劇の後、みんなに“アリ派”か“キリギリス派”か尋ねてみると、「ちゃんと仕事をしている」“アリ派”が多い結果に。一方で、キリギリスの特徴であるバイオリンの魅力についても、話がでました。
キリギリスは音楽を奏で、人の心を豊かにし、楽しませている、それも素敵な仕事ではないのか。参加した子どもからサッカーなどスポーツ選手の話も出て、「仕事とは何なのか」を考え、最終的にみんなは“アリ派”か“キリギリス派”双方の間で揺れていたようでした。
「アリ派のひと~?」「はーい!」キリギリスの表情はちょっぴり複雑そう |
次に、昔話法廷「アリとキリギリス 裁判」 というNHKの番組の映像をみんなで視聴しました。
この番組は、多くの人が知っている昔話を現在の法律の視点から、裁判形式で描いています。アリとキリギリスでは、「食べ物に困り訪れてきたキリギリスを、アリは見捨ててしまい、キリギリスは死んでしまう」という設定で、アリは刑法の「保護責任者遺棄致死罪」に問われます。
裁判で「有罪」か「無罪」か、結論は出さずに、考えてもらう内容となっています。「保護責任者遺棄致死罪」が一般的な保護者に限定されるのではなく、状況次第で友人にも適用されるという点は、大人も含め、みんな驚いていましたが、裁判の過程で話されるアリ側とキリギリス側双方の主張を聞くと、みんなの心は再び大きく揺れているようでした。
アリは「有罪」か「無罪」か―
映像を視聴後、「アリが助けないとおかしい」という意見や「それでもキリギリスは自業自得だ」という意見も聞かれましたが、「キリギリスの生命を見捨てること」と「アリが冬の間少々ごはんを我慢すること」または「それ以外の選択肢があるかどうか」を比較しながら、みんな、それぞれ真剣に考えているようでした。
人は、お互いに協力し、その行動に影響を及ぼし合いながら社会で生きています。時には、けがや病気をしてしまったり、家族・友人の状況が悪くなったり、社会経済状況が変わったり・・・いろいろなことが影響して、今のわたしたちは形作られています。
また、キリギリスが音楽を奏でることが幸せであったように、「幸せの尺度」は人それぞれで異なります。映像で語られていたキリギリスの状況と現実の社会をリンクさせながら、「キリギリスは果たして本当に自己責任なのか」「キリギリスはサボっていたわけではない」とみんな揺れ動きながらも、真剣に考えていました。
「哲学カフェ」には「答え」はありません。モヤモヤするかもしませんが、みんなで考え、話し合い、課題に対して「方向性」の道筋を示していく、そのプロセスが大事だと思います。
今回の「哲学カフェ」が少しでも心に残るものでしたら、とても嬉しいです。最後に、「えん」の皆さんとお会いでき、一緒に考えることができて、とても貴重時間を過ごすことができました。ありがとうございました。
(報告:牧)
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