9月10日(金)夜に「話す会」を開催しました。
米国ニューヨークのワールド・トレード・センター跡地 |
当日の流れは以下の通りです。
- 自己紹介&シェア「2001年9月11日どうしてた?どう思った?」
- 「世界がもし100人の村だったら」のメッセージを読む(輪読)
- グループワークで話し合い:「メッセージの中で自分が印象に残っているものは?」「20年前、これをシェアした人たちはどんな願いを持っていたと思う?」
- 教材発行の背景・思い(上條直美さん)
- ふりかえり
「メッセージの中で自分が印象に残っているものは?」では、特に後半の「もしこのメールが読めたなら、」から「人びとを引き裂いている非道な力からこの村を救えます。きっと」の部分について多くの意見が出ました。一部をご紹介します。
「人びとを引き裂いている非道な力」
✋ 日本に暮らす自分は、誰かを傷つけたり犠牲にしたりしている側にいることが辛い。愛と正義に対する「悪=人々を引き裂いている非道なチカラ」があるというわけではなく、みんな誰かを傷つけたいと思っているわけではない。そんなつもりじゃないのに、加担してしまっていることに悲しさを感じる。✋ 9.11でテロを起こした人たちにも信念があった。かれらも「非道なチカラ」を感じていたのだろう。
✋ アメリカはアメリカの正義があり、テロリストにテロリストの正義がある。相手の立場、気持ちに立つことが、今とても少ないと思う。「非道なチカラ」というのは、わたしたちの「想像力の欠如」のことかもしれない。
✋ この20年間で、日本社会も分断させられていて、格差が広がり、忙しすぎて考える時間が減っている。「想像力の欠如」が不幸な状態が加速させているように思う。
✋ この20年間で、相対的に豊かになっていることと、格差が広がっていることが同時に起こるパラレルワールドになってしまった。無関心や関係性の貧困が「非道なチカラ」なのかもしれない。
「けれどなによりあなたは生きているからです」について
✋ CNNのニュースでは、9.11のテロで亡くなった人の名前が一人ひとり読み上げられていた。一方、アフガニスタンへの攻撃による死亡者は「数」でしか報道されていない。一人ひとりの命の価値が対等でなく、根源的差別があると感じる。「生きている」わたしは何ができるだろう。
「ふかぶかと歌ってください。のびやかに踊ってください」
「まだ間に合います。…きっと」
✋ グループでこの部分について話した。前半の深刻な事実の羅列とはかなり異なっている。前半は、この部分がないと正気を保てないくらい辛い内容。辛い現場に向き合っている人は、こういうことが必要なのではと思った。
✋ この言葉が、切実な祈りに聞こえる。
実は、後半の部分はオリジナルのメッセージには入っておらず、再話された池田香代子さんと対訳者のダグラス・ラミスさんが出版にあたり付け加えた部分です。そこに込められた思いは、教材の「はじめに」にあるので、ぜひ読んでみてください。
実施してみて、「世界がもし100人の村だったら」のメッセージを読んで、話し合うだけでも気づきがあり、ほかの参加者の考えや経験から学ぶことが多くあると実感しました。役割カードを使ったアクティビティをオンラインで実施するのは難しいのですが、このような進め方もぜひお試しください。
教材冒頭の「はじめに」にもありますが、「100人の村」のメッセージは、「成長の限界 ローマ・クラブ人類危機のレポート」(1972年)の著者のひとりであるドネラ・メドウズ(環境学者)による、「ザ・グローバル・シチズン 村の現状報告(世界がもし1,000人の村だったら)」(1990年)が原典となっています。
50年前、メドウズらは「成長の限界」で警告を発しています。
「地球は有限で増えたりしないのに、世界人口、工業化、公害、食糧生産、資源減少は幾何級数的な勢いで拡大しているため、私たちは破滅に向かって進んでいる」
それなのに、多くの国・人々は「右肩上がりの経済成長」に邁進し、格差は拡大し、気候変動は加速し、暴力の連鎖を終結させることもできていません。
メドウズらは、先に続く文章で以下のようにも述べています。
「速度を落とすことが、世界を救うたったひとつのもっとも有効な行為かもしれない。
Slowing down could be the single most effective action to save the world.」
この50年間、あまり上手に「速度を落とすこと」ができてこなかったわたし・たちは、この村を救うことはできるでしょうか。(報告:八木)
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