「多文化共生」のブログを担当させていただくボランティアの森田です。
6月からたくさんのテーマを扱ってきたDEARカレッジも第6回目となります!
ひとつのテーマを講義として扱うのはこれで最後です。
文教大学の孫美幸さんを講師に迎えた第6回のテーマは「多文化共生」でした。SDGsから考える多文化共生について、在日コリアンである孫さん自身の経験を通して、考えていきました。
講師の孫さんと一緒に |
プログラム
- グループディスカッション
- レクチャー
- 孫さんの多文化共生授業の実践例
- まとめ
- 参加者アンケート
- おわりに-わたしの感想
1.グループディスカッション
1回目のディスカッションでは、これまでの講座内容を踏まえながら、「多文化共生」をどのような言葉で言い換えられるのか、それぞれの言葉で意見を出し合いました。
参加者からは次のような意見が出ました。
- 折り合い
- 持ちつ持たれつ
- 分断されていることが前提なのでは?
- しなきゃなと意識すること
- 命のつながり
共生とは何か、孫さん含むミックスカルチャーの人々が日々ぶつかっている壁や、孫さんがこれまで行ってきた授業における経験を挙げながらお話ししていただきました。
2.レクチャー
孫さんのライフヒストリー
孫さんは、在日コリアンのお父様と韓国の釜山出身のお母様のもとに生まれました。ひいおじいさんの代から日本に住まれています。何世かは明確ではなく、孫さんは「2.5世」という風に表現していますが、だからこそ制度にはまらないということがあるそうです。「国民皆」という言葉の中に自分は入らないのではないか、本当に安心できるのか考えたともおっしゃっていました。
また、昨年亡くなられたお父様の銀行口座の預金整理をしようとしたところ、韓国から戸籍を取り寄せるように言われたことがあるそうです。孫さんのお父様は77年間日本で暮らしたにもかかわらず、韓国から戸籍を取り寄せなければいけなかったという点に疎外感を感じたそうです。
孫さんはこのようなマイクロアグレッション(日々の小さな差別)のようなものを数多く感じてきたとおっしゃっていました。
著書『境界に生きる』 |
何が問題か? ヘイトクライムの事例から
京都府ウトロ地区での放火事件
ウトロ地区は京都の中で朝鮮系の方々が多く暮らす地域です。もとは飛行場の建設に関わった労働者が集まった場所でした。
2021年8月にここで放火事件が起こりました。容疑者は逮捕されましたが、
「韓国人に恐怖感を与えるのを始めから意識していた。ヘイトクライムではない。政治的な主張」
というように供述したようです。
また、「社会の注目を浴びると思った」とも言っており、社会から排除された感覚が背景にあるようです。
さらに「在日コリアンと関わったり直接話したりした経験はない」ものの、「日本から出ていけ、などの書き込みに“いいね”が数千件つき、事件を起こすうえで指標となった」と言ったそうです。現代社会の問題でもあるSNSにおける偏った情報が事件につながってしまった一例です。
孫さんは、裁判に関わった方の「刑事裁判の判決に特定の人種や民族が標的となった犯罪の判決はない、それは民族差別そのものを動機として認定し、量刑が考慮された判例はないということ」というお話を引用して、このような事件がただの放火事件としての記憶になってしまうことの危うさを述べました。
このような事件を歴史的に見返したときに、ウトロで放火事件があったという記録だけでは、特定の人種や民族が標的となったことが、人々に忘れ去られてしまいます。
国連はコロナの影響でアジアンヘイトが広がったことを背景に、今年6月に「ヘイトスピーチと闘う国際デー」をアピールしました。ヘイトスピーチを食い止めなければ、戦争や虐殺につながるという危機感があると孫さんはおっしゃっていました。
日本における「共生」の意味
孫さんは上田氏の著書(2013)と栗原氏の論文(2007)から「共生」とは現状維持ではなく、ともに生きる方へという動きを含む言葉というふうにおっしゃっていました。
また、当事者である方が生きているうちに社会が変わることが大切だともおっしゃっていました。
その人が亡くなったあとに、いい社会になったね、ではなく、その人自身がつらい思いをしたけどもう一回チャンスが回ってきたという経験や実感が生まれなければ、共に生きるということは言えないということです。
孫さんがかつて経験したことと、今のミックスカルチャーの学生たちの経験とで変わらないことがあるといいます。
ルーツは様々ですが、両親の言葉の手助けをした経験があると語った学生たちがいたそうです。例えば、学校のプリントや区役所、病院での書類などを書いてきたという経験です。ヤングケアラーという言葉がなかった時代からそういったことが現在まで続いています。
ただ、孫さん自身、社会は確実に変わってきたという実感があるそうです。だからこそ変えられる自信があるとおっしゃりました。孫さんのお母様は夜間中学校で初めて文字を学びました。学ぶことによって、自由になれたのではと孫さんは感じています。それは世界の動きと日本の市民社会が連動してきた中で、孫さんのお母様にもチャンスが回ってきたということでもあります。
また、孫さんは日本の外国人登録証に指紋を押した最後の世代で、4歳下の弟さんは押さなくてよくなりました。これも長年の市民運動における、犯罪者のような扱いをする必要はないという声の高まりによるものでした。
「文化本質主義」を乗り越える多文化共生教育の必要性
「文化本質主義」は単一基準のアイデンティティにより人間を矮小化し、文化を境界が閉じたものとして扱う危険性をはらみます。(○○人はこういう人、というような偏見)
孫さんは、文化の多様性や複数性、流動性をもった視点を持った学びの場をつくることを大切にしてきました。
ここ最近の日本の動き
ヘイトスピーチに関して確認しておかなければならない事例として以下のようなものがあります。
- 2009年「京都朝鮮第一初級学校を襲ったヘイトデモ事件」
- 2013年「京都地方裁判所の判決」
- 2014年「最高裁判所の判決」
- 2016年1月「全国初のヘイトスピーチ抑止条例が大阪市で成立」
- 2016年6月「ヘイトスピーチ解消法施行」
上記のような事例を受けて、皆さんの身の回りで実質的に変化したことはあったでしょうか?
最近の日本全体の動向では、次のようなものがあります。
- 2016年 ヘイトスピーチ解消法/夜間中学校等の設置を拡充
- 2017年 新しい学習指導要領告示
- 2018年 外国人在留資格拡大へ
- 2019年 日本語教育の推進に関する法律
- 2021年 入管法改正案→反対運動が起こり廃案
毎年のように様々な法改正等が行われています。
こういった情報をアップデートしていくことで、外国人に関わる不安定さや影響を実感できるのではないかと孫さんはおっしゃっていました。
日本の教育
日本の学校では、主に日本語で授業が進められ、外国語の授業と言えば「英語」を指すことが多いです。これが多言語・多文化を尊重するのを難しくしていると孫さんは言います。そして、日本の伝統文化教育も影響しているそうです。
2006年の教育基本法改正により、学習指導要領が変わり、伝統文化教育が行われるようになりました。学校で柔道や琴などに触れた人も多いのではないでしょうか?
今の日本の学校教育では、「文化本質主義」が強固になってしまう可能性があります。
SDGsから考える公正・共生・循環
上記のことから、新たなアプローチとして孫さんはSDGsから考えるということを提案しました。
第1回のDEARカレッジで「公正・共生・循環」がでてきましたが、SDGsから考えることで、一見良いと思われる取り組みの中にも排除の構造が入っていないか、という視点で見てみることができます。
例えば、かつてナチスがユダヤ人の隔離施設で有機農業を行っていたという史実があります。ナチスの言葉(「自然が豊かな場所でこそ、優秀な人間が育つ」「人間も他の劣等な人種が混じらないように育てる」)と有機農業(循環)の考え方が表面的に重なってしまうという見方ができます。こういった点に注意しながら取り組みをしていかなければなりません。
SDGsの視点から考える多文化共生の学び
日本はSDGsの取り組みとして何をしているか、皆さんは知っているでしょうか?
文科省では、人権教育の指導方法等のあり方について発信をしています。意外と知られていないことだと思うので、ぜひ、一度ウェブサイトを確認してみてください。
➡文科省:人権教育の指導方法等の在り方について[第三次とりまとめ]補足資料(令和4年3月)
孫さんがこれまでの多文化共生教育で考えてきたこととして、以下のようなことを挙げられました。
- 文化の流動性や複雑性、「共苦」の感覚を学ぶ
- 排除の視点を見極める構造を入れられないか(景観保全のために住民を追い出すなど)
3.孫さんの多文化共生授業の実践例
ここで孫さんの多文化共生授業の実践例を紹介します。
ある授業では、ルーツがバラバラな人たちとともに学校に行き、孫さんは「日本生まれ日本育ちの人は誰でしょう?」という質問を生徒に投げかけます。ほとんどがアジア系の人を指しますが、正解はロシアにルーツを持つ白人の女性です。
この女性はこれまでの偏見にさらされてきた経験を語ります。また、フィリピンルーツの女性はタガログ語や日本語などいろんな言葉で歌を歌います。パートナーがインドネシア人でイスラム教に改宗した韓国の女性は、イスラム系、韓国、日本の文化が合わさった自分の日常について語ります。
アメリカで多くの時間を過ごしたブラジル・ルーツの女性は、ブラジルの話をしてくださいと言われることへの戸惑いなどを孫さんに伝えたことがありました。
生徒には文化の複数性や流動性を体感しながら学んでもらいます。孫さんは教師や学びの作り手もこのような面を見ることができればと語ります。
その他にも孫さんは、子どもたちがその人の立場になって考えるということを学校の先生たちと相談しながら実践を作ってきました。例えば、外国の人の立場になる即興劇を通して、自分ならどうするか生徒に考えてもらうというような授業も行いました。
大学の多文化共生の授業でも孫さんは様々な工夫をされてきました。
この授業では、春になると、学生たちとともに大学の周りを歩きに行くそうです。そこで、普段スマホに夢中な学生たちが、タンポポが食べられることを知り、大学の周りにどういう木が植えられているのかなどを知ることで、日常のなかで見えていないことを見直し、視点を増やすというねらいがあります。
私は、よく通る道で少しだけ視線を上にずらして歩いてみたことがあります。すると、とある建物の屋上に大きな動物のオブジェがあることに気づいてびっくりした経験があります。
皆さんも少し顔を上げてみる、視点をずらしてみることで、何かに気づくことがあるかもしれません。
機関誌『開発教育』64号 特集「多文化共生社会の未来と開発教育」(2017年) |
4.まとめ
ふたたび「共生」とは?
5.参加者アンケート
- 多文化共生の理解度は、共感力であり、それは経験に基づくところも大きいのかなと感じました。
- 他人事が自分事になる難しさ。
- ヘイトスピーチのような悪意のある行動ではなく、無知故に相手を傷つけているシーンは本当にたくさんあることに改めて気づいた。
- 加害者へのコンパッション、差別に出会ったときの対応。人々が自分の言動について差別的や固定観念にしばられていないかを見直す機会を増やすことをどうやっていくか。
- 瞬発力か〜 問題のある言葉が出てきた時、とっさに頭が回転せずスルーしてしまったことがあるな。でもそのことが忘れられない。
6.おわりに-わたしの感想
多文化共生は、個人的に大学で一番触れたテーマで、多文化共生というテーマを軸に移民や先住民族などについて学んできました。知識がほとんどない状態で臨んだものは学ぼうという意欲もわいてくるのですが、逆に当たり前すぎてわからないこともあります。
私の妹は障がいをもっていますが、障がい者にはどんな壁があり、何が必要とされているのか、実際のところよくわかっていません。孫さんは当事者も学ぶことや自分のマイノリティ性の大切さについておっしゃっていましたが、私自身も障がいを持つ人のきょうだいという当事者性をもって、学んでいくことが大事だと思いました。
また、孫さんのおっしゃっていた「瞬発力」はもともと身につけたい力でしたが、この時代により必要とされる能力の一つだと改めて思いました。間違っていることに即座に声を上げる、相手の立場になって考える、自分の考えを発信する、いろんなものとつながっている瞬発力をこれからも学び続けながら育てていきたいです。
皆さんは6回のテーマでの学びをもって、何に繋げますか?
危機感を感じたり、希望も湧いてきたり、いろんな感情がわいてくるカレッジになったのではないでしょうか。DEARカレッジを通して皆さんが感じたこと、気づいたこと、疑問に思ったこと、モヤモヤした部分をこれからも大切にしていただければと思います!
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